わたしが生きてきた時間
青空


 私は、昭和十年長野県東筑摩郡本郷村大字浅間74番地に生まれ、本郷村国民学校に入学し、「一億一心火の玉」「欲しがりません勝つまでは」「贅沢は敵だ」「神国日本」の中で育ちました。
 記憶に残っている当時のざれ唄に、ルーズベルトのベルトが落ちて、チャーチル散る散る国が散るとか、後は軍歌と教育勅語、そして勤労奉仕で日々を送り、五年生の時に終戦・・途端に、民主日本、平和日本に切り変わったその狭間に、国民学校、新制中学時代を過ごし、戦前の日本の教育を受け、戦後の日本も又理解に勤め、現在の県ケ丘高等学校に入学致しました。

 怒涛のように入ってくるアメリカ文化、チョコレートやチューインガムをジープからばらまく進駐軍(勿論好意でしたが)。これでは日本の文化や日本人の良き伝統が失われると思い、高校を一学期で中退、浅間桜ケ丘の松の木に、「目的がならずんば我再び故郷にかえらざん」と彫り、塩尻峠の向うには、青空と共に、夢と希望が広がっていると一人勝手に決めて上京したのが十五歳の夏でした。


中学三年担任の丸山信先生は、「男子たるもの自分の人生を決めたら迷わず進め、且つ究めよ、朝礼と退校の時顔だけだせば宜しい、後は図書室で目指す将来の為自習せよ」と、今だったらとんでもない事ですが、丸山先生の影響は今日でも続き、感謝と尊敬を致しています。
 その後ありきたりの苦労と、芸道修業が続きます。一番の懐かしい思い出は、昭和三十三年に、内弟子生活から外に下宿を許された時のことです。当時外食は朝食四十円、昼六十円、夜八十円でした。その日、朝起きたら三十円はあったのですが、十円が行方不明。部屋中引き出しから、押し入れまで探しても見つからず、とうとう昼になり断念、空き腹で仕事に出掛け往生致しました。後十円あれば朝食に有りつけたのですから、その時の十円は、四十円の価値があるということを知り、その後の生き方に大きな教訓となりました。

 十五の歳に己れが定めた人生スケジュール、二十歳で名取(実際は十九歳でした)、二十七歳で結婚(どんぴしゃり)、三十歳で我が家を例え狭くとも東京都に建てる(現実はやはり狭く三十一歳でした。一年遅れ)、そうして東京都の電話帳にわが名を載せる・・馬鹿馬鹿しい事ですが何しろ十五歳で決めたことですので。その後は、家族の為、世の為人の為精一杯働き、還暦を迎えたら、月・雪・花を愛でて自然のなかで季節の移り変りを楽しみたい、と決めてありましたが、これだけは全く予想違い、今以て馬車馬の如く追われて居ります。ま、これも有り難い事かと慰めて居ります。
 何しろ私の仕事は、自分で自分を管理し、保証も無く、勿論決まった報酬・ボーナス・退職金もありません。仕事を休めば収入は無し。仕事のスケジュールに合わせて、風邪を引いたり、病気をしなければなりません。休みたい己れと働け働けの己れと常に戦っているのが毎日です。

初心不可忘初心不可忘

 今日まで、わが道を進んで来られたのは、勿論支えて呉れた家族のお陰、又社会の皆様のお陰、そして北アルプスを望む松本平の自然の中で素晴らしい恩師・友に育まれた幸福。自分を常に叱咤奮励してくれたもう一人の自分に感謝して、後半の人生に再出発すべく心新たに、座右の銘「初心不可忘」を大切にして行きたいと思って居ります。

 私の人生経過時間と蓄積をもとに、日本の伝統文化としての舞踊(世界共通身体言語)で、地球から戦争の無い世界に貢献したいと言う大それた夢は、今でも心の片隅に何故か残像して仕事の起点になっており、少年の時描いた願望とは恐ろしいもので、今でも私の生涯時間を拘束し続けて居ります。

(株)文教図書出版 発行 「我が人生論(長野編)」より

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