花柳徳兵衛師に入門して


花柳琢兵衛師に聞く

インタビュア:平野英俊氏
平成四年、邦楽と舞踊 誌(11月号)に掲載
(*原文に注釈を付加してあります)

今日は、戦後の日本舞踊界に金字塔を立てられた花柳徳兵衛師の内弟子でいられて、数々の創作舞踊の縁の下の力持ちとなっていた、花柳琢兵衛さんに是非お話をお伺いしたいと思いました。

先生のお家は、もともとこういう芸能界の方でしたか。

私のところは、父が岸澤(*常磐津節の三味線方の代表的名家の名)派九代目家元岸澤式佐師そちらで修業致しまして、徳兵衛先生と、作曲等で親しくしていらした十代目岸澤式佐師と、共に九代目の許で修業して。今は十一代目ですので、今の家元とも、そんな関係で親しくお付き合いさせて頂いて居ります。

私も、生まれたときから、常磐津の音色を、ずっと聞いて育ったのは確かです。

本能的に三味線の音色を聞くと、どきどきするようなものが今でもあるんですね。それは多分、子守唄のように常磐津の音色を聞いて育っていましたから。
でも生活自体は、全く普通の男の子の生活をして居りました。槍穂高等一人登山が大好きでした。

結局昭和二十年ですね、信州にも米軍が進駐して来て、アメリカ文化というか、そういうものを日常の生活に色々投げ与えたのでした。丁度国民學校五年生でしたが、それに物凄く腹がたったんですね。
本当に馬鹿馬鹿しいんですけれども、これでは昔からの日本の良さ、伝統の文化というものが滅びてしまう。僕は絶対に日本の文化を守る仕事に就こうと思ったのがそもそも、この道に入るきっかけになったと思います。
そんな大それたものではないけれども、多分潜在意識では、あったと今は思います。

すると先生のお父様は。

岸澤式太郎、ずうっと立三味線をして居りました。

常磐津の三味線方だったんですか

はいそうです。戦争前は東京で芝居の家元の脇をやっていたのですが、空襲が始まった頃から信州松本に帰り、戦後伊豆とか、諏訪、横須賀といったところで出稽古に行き、徳兵衛先生との出会いがあり、互いに常磐津の師匠、踊りの師匠の稽古場の紹介しあいがあったようです。 戦後徳兵衛先生が、疎開から戻られ、今の前進座のすぐ向かいに住んで居られたところに、うちの父が東京に来ると、徳兵衛先生のお宅に泊まっていたんです。そんなことから以後ずうっと親しくさせていただいたのです。

琢兵衛さんが踊りを習われるキッカケは

踊りは、二年生の時松本に西川扇五郎師がお住まいで、後に西川巳之輔とお名前を変えられましたが、その当時西川流の行司さんだったと思いますが、やはり父とお付き合いがあったので入門致しました。

小さい時、六歳六カ月。

六歳かな、あの当時。それで、扇五郎師に入門の手ほどきを受けました。『山帰り(*清元節。鳶の者が大山の石尊を参詣した帰りの様子を描いた風俗舞踊)』が中々踊れず、悔しくてべそをかいたのを妙に覚えて居ります。
何年か稽古に通い、『山姥(*夫である坂田蔵人と死別した遊女、八重桐(山姥)は、足柄山に籠もり、蔵人との間にもうけた怪童丸をを大切に育てていた。あるとき、源頼光の家臣に怪童丸の非凡な資質を認められ仕官を約束されるが、我が子の出世を願う山姥は愛児と別れて山深くに去って行く)』の怪童丸を踊る事になり、もう幾日で舞台というとき、父と扇五郎師との間でちょっと折り合いが悪くなり、私にとって幻の怪童丸となり止めたんです。
小鼓とか、三味線のお稽古は多少はしていましたが、父から常磐津の稽古を受けていれば良かったなと今は思って居ります。
父から、徳兵衛先生は新しい踊りを創っている方だという事は、よく聞いて居りました。どちらに入門すべきか色々のお話がありましたが、その頃私が、自転車が好きだと言うことを、父から聞いて知っていたらしく、「自転車を用意して待っているぞ」という連絡が来たんです。それでいっぺんに決まってしまったのです。「じゃあ徳兵衛先生に、入門しよう」上京したのが、昭和二十五年七月でした。

その頃徳兵衛先生と云うのは、普通のお師匠さんという感じだったんですか。

そのころ徳兵衛先生は、そんなに戦後の活躍を創作的な面ではしていませんでした。主として、伊豆長岡、大仁、韮山、修善寺、横須賀等の花柳界の稽古に忙しく、門弟の育成に勤められ、大変厳しい先生でした。
とにかく入門して、稽古場に詰める事は詰めても稽古はして頂けず、雑巾掛けから、諸雑用のあけくれの日々が始まったのです。

先生は二十六年だったと思いますが、読売ホールで<三番叟の研究>公演が、戦後の活躍の第一歩です。あの頃「狂言」の「三番叟」だけ独立して能楽堂以外の場で上演する事は、大変だった様です。

河竹繁俊先生の講演、本田安次先生の神楽の三番叟の解説と実演松本亀松先生の能の三番叟の解説と実演、渥美清太郎先生の歌舞伎の三番叟の解説、踊りの三番叟を徳兵衛先生の解説と実演等々、その頃の私は何が何だか解らず、楽屋でうろうろして、只々客席が満員で、熱気が有ったことだけ記憶して居ります。

三番叟四態ということですね。

そうですね。徳兵衛先生のこの催しが戦後第一回の活動です。

入門はいつだったんですか。

15歳十五です。県立高校に合格した事実だけあればいいという考えで、すぐ内弟子にいったんです。それから、こんな筈では無かったという生活が始まり、三年目に最初の稽古を兄弟子に付けて頂いたのが末広狩りの太郎冠者、嬉しかったです。
三年間で何を得たかというと、忍耐力と掃除の仕方、振り付けの時、的確にレコードの針を下ろす事等々です。

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