花柳徳兵衛師に入門して

花柳琢兵衛師に聞く
インタビュア:平野英俊氏
平成四年、邦楽と舞踊 誌(11月号)に掲載

『慟哭』について

新しい踊りを創っていた花柳徳兵衛先生に入門したというのは、何か考えていたしたからですか。

入門の経緯は、好きな自転車を買っていただいたという、とても単純なものでした。私自身は父からの話だけしか徳兵衛先生については存じておりませんでしたから。

徳兵衛先生が創作的なものに、入っていったきっかけというようなお話は、聞かれていますか。

それは先生は、常に戦争で亡くなられた方々の鎮魂をしなければいかんとずっと終戦後考えていらしたようです。
そのため、左右に揺れ動く徳兵衛先生の心情は、舞踊家の枠を越え大変だったと、今私自身、その年に近ずくにつれ純粋な先生だったと思います。
勿論、戦争反対は当然な事ですけれど。太平洋戦争で犠牲になった方々の心の叫びを。自分たちの仕事の分野で何がなし得るか、そのためにはどうすべきかを考えられた結果だと思います。

そういうものを創りたいというものが中から出て来たのですね。

自分が、舞踊家として成し得ることとは何か。亡くなった方々の悲しみと、怒りの声無き声を、今生きている人間として、舞踊家として、踊りの場で創り表現しなければならない。そういうことだと思います。

そうすると、その一つ前の時代の藤陰静樹さん、五條珠実さん、そういう方々の『新舞踊』を見ていらして、自分の燃えたぎるものを創りたいということがあったのでしょうか。


異質なものだったとおもいますね。普通考えない、もっと社会的なつながりというか、現実の日本の一時の歴史の流れを把握して今、現代に訴えなければならない、表現しなければならないという思いが先生の原点だったと思います。
だからそれがあの徳兵衛先生の作品『慟哭』に、象徴されたのではないでしょうか。
 
とこらがあの『慟哭』ですね。所謂新しい技法はあまりないんです。

古典の振りなんですね。

ですからそれがすごいんです。一つの動きのバリエーション、バリエーションで、重ねていって。大体普通の弟子ですし、そんな近代的な技法の訓練も受けていないし、あの『慟哭』のすごいのは、所謂古典の日本の在来の技法を使った事ですね。

全く新しいものに見せてしまう。

全く新しいです。でもやっていることは、今でも記録がありますけれども、技法上は古典舞踊です。
結局その作品の表現された思想が当時の方々に鮮烈に映ったんだろうと思います。あの作品は徳兵衛先生の生涯の金字塔だと思います。

そのころ踊られたのは幾つぐらいの方なんですか、みなさん。

うちの家内も踊っていますから、いまや大半が五十代を過ぎていますね。

当時は二十代。今でいうと本当に駆出しの人ばかりが踊っていた。

駆出しの人もいるし、古くから踊りのお師匠さんをしている方も入っているわけです。それが引っ繰り返ったり飛び下りたりしたわけですから。
キャリアも年代も、舞台経験も千差万別共通していることは、一門という事。
振りは古典的であっても、小節を数えるなんて初めてという人も、大勢いました。
新しい踊りというと、日本人の感性や生活様式の中からとても、理解出来ない動きで創られる場合が多いですね。創作と銘打った場合特に。

わざとらしいのはありますね。

『慟哭』については、こういう言い方は過激だとは、思いますが、技法的には、今でも、私は古典舞踊だと思っています。
舞台装置の佐原包吉先生、照明の松崎国雄先生本当に素晴らしかった。連日お二人は稽古場に通われ、徳兵衛先生と作品作りに情熱を傾けられ、燃えていらした。
あの舞台装置は、時によっては海原であり、時によってはトーチカであり、時によっては山野であり、または深い海の底とか、そういうイメージが脹らむ造形の角度の不思議さ。廻り舞台で角度を変える毎に違う世界。
私は、盆のキューだしの責任をもたされ、音楽のキッカケで盆を廻し、きちっと止める。五センチずれたらアウトなんです。
もう照明は、全部吊りこんでセットと合わないのです。ところがその頃の盆は、おさまってから、滑りがあったんです。今のは、ポンと停まると思いますが、あの当時は、ポン、スーと滑るんです。そのことも計算していなければいけない、そのキューを音楽を聞きながら、

琢兵衛さんがやっていらした。

地舞台の印と盆の白線が、きっちり合った時は全身ビツショリそれに依って、松崎先生の吊り込んだ照明の位置で光が確実に効果をあげるのですから、ずれたら大変。特に望郷の場面は、目茶苦茶になってしまいますから。

そうするといわゆる『慟哭』は、あまり技術的ものでなくて、逆に云えば振りから云えぱそんなに難しいものではない、古典舞踊の振りぐらい。それが群にしたというところが、徳兵衛先生の特徴なんですね。

それで組み立てられた群に思想があったということではないかと思います。群舞という言葉で誤解されているなとおもっているのは、大勢で踊ると群舞。
私は解釈が違うと思います。個々が思想を持ち、感情、感性の盛り上がったものが群舞だと思います。
「大勢で踊ると群舞」と今はよく云われます。
個性を最大限に発揮して、それのハーモニーが群として表現できるもの、それが群舞だと。多分徳兵衛先生は、その意志で創られたと思うんです。手足を揃えて大勢で踊るのは、総踊りだと思うんです。
総踊りと群舞は根本的に違うと思います。個々が踊り手として個性を殺すのでは無く、最大限に生かして、その結果群として全体のハーモニーを醸し出す。このことが群舞の大切な定義だと思うんです。徳兵衛先生の制作課程は、それだったんです。

必ず指導する時もそういうふうに。

一人一人が死んで揃うのでは、なんにもならない。その人その人が、役そのもので表現が与えられるものでなく、あなたが、その人である気持ちでないと。

つまりその人の中にドラマがある訳ですね。

なけれぱ駄目なんです。その個々のドラマの集合体が今度は群舞としての思想になってくる。だからダイナミックにもなるし感動も表現出来たと思うんです。
私も、徳兵衛先生の創る課程を側で居さして頂いたのは大変幸いでした。一人の個を動かすためどうするか、鉛筆のキヤップを人間に見立て角度、位置関係を考えながら構想を練りあげていらした。
幕開きの海の底で、遺体が故国の方角を向いて漂っている場面、あれだけ長い時間の振りは、たった四つ位のバリエーションです。
それが巧みに重なり何か凄いものが、時間の経過と共に群から吹き出して来る。
だから決して複雑な振りでないのに、複雑で尚感情が迫る。
それが今以て、私もちょっと。

なぜそうなるのか。

私たちはすぐ工夫してしまうんです。勿論工夫という意味は違いますが。
単純な動きを強引に重ね合わせていって、願うものをより以上に組み立て、キャリヤの違う踊り手に無理させなくても群としての思想を表現させる。やはり私達はすぐ小細工をしてしまう。

なるほど、でも、そういう群舞の作り方というのは、どういう所から発見なさったのでしょう。

先生は、潜在意識ではあったと恩いますが、踊り手を動かしているうちにできあがってきたと思います。前提としてではなくて元々全部が訓練された踊り手では無く、一門とは言えばらぱらの集合体で、そうかと思うと入門したての若い人も入っているわけですから、そんな技術的なテーマを考えるよりも、やはり創りあげていくうちに。

全く独創的に創り出した、誰の影響も受けていない。

受けていないと思います。その前に、そういうものは無かった筈です。

例えば当時モダンダンスやバレエが来日していますが、その影響はないのでしょうか。

先生はお付き合いしている方も多かったので、影響が無いとは云えないと思いますけど、全く技法が違いますからね。洋舞は跳ぶことに長けており、邦舞は腰を沈めることに長けていると思います。

その群の扱い方ですね。バレーはコール・ド・バレエというのもあるし。

洋舞の群の扱い方は、体系的にある程度決まっているんではないでしょうか。
徳兵衛先生の『慟哭』は、最初それが無かったと思います。制作課程に出来上がった来たのではないかと思います。とんでもない隅にいる人が実は、その時主役ということが随所にあった訳です。あの場合踊り手全体が主役であり醸し出す群の感性が主役でしたから。

最初に発表したのは、昭和二十八年新橋演舞場ですから、その翌年芸術祭賞を受賞したのでした。その時の社会は戦争で亡くなった方とか、悲しい思いをしている人が犬勢いらしたから、尚更に観客も、吸い取り紙のように受け取り感動して頂いたのだと思いますし、古関先生の、旋律も胸をかきむしられる様な感動的な作曲でした。スタッフの方々のおカを得て、戦後の日本全体のテーマを日本の踊りで問い掛けたのは、いまでも素晴らしい偉業だったと思います。
時々「若い時、『慟哭』を観た印象は一生忘れないという舞踊家が随分います。

いますね。やはり踊りに興味の無かった人が随分見ていらっしやたという話は聞きます。

畑違いの方が一杯見て呉れたのですね
だからやはりあの『慟哭』というのは、私自身実際に創る以前から創る課程そして公演とずっと弟子として、いましたから、いま時を経て考えると尚更に凄い作品だったと思います。一度追善で再演しようという話が一門であったんですけれども、その時は取り止めました。あの当時あれだけ純粋な気持ちになれる時代にあの作品があったんです。
徳兵衛先生に対する弟子の思いも大変でしたし、とにかくぶっ倒れても何してもやり遂げなければならない同志的な思いが、踊り手個々に、連帯感を盛り上げて上演されたと思います。
再演となると勿論記録がある訳だから不可能ではないけれども、そのときの純粋な気持ちでやれる人が何人居るかというと、月日の流れには逆らえず、なぞることは出来るとは思いますが、幻の名作として徳兵衛先生の思い出と共に瞼の中に記憶していたほうがいいとも思います。

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