花柳徳兵衛師に入門して

花柳琢兵衛師に聞く
インタビュア:平野英俊氏
平成四年、邦楽と舞踊 誌(11月号)に掲載
(*原文に注釈を付加してあります)
徳兵衛先生から独立

花柳徳兵衛師はこの『慟哭』の後も創作舞踊を次々創り、文部省(今は文化庁)の芸術祭賞を受賞していますね。
そのエネルギーの偉大さはすごいと思うんです。でもその後となりますと実に寂しいと思うんです。徳兵衛師の仕事を後をやり続け、育てる人がいませんが、その点どうお考えになりますか。

幸いにして、徳兵衛先生の戦後の活動は、殆どやらして頂き、経験と共に勉強させて頂けたんです。
やはり日本舞踊の場合どうしても古典の技法が全ての基本になりますでしょ。正直申し上げて創作舞踊が活発であればあるほど、自分自身古典の勉強が不足します。徳兵衛先生の許で、創作作品に出演させて頂くのに比例して、古典を学ばなければと意識して居りました。

徳兵衛先生も、普段の古典の稽古は大変厳しく、近代的な作品を創るのにと恨めしく思う程、すぐ樫の棒で、あれは痛いんですよ。あの当時の言葉で生活は封建的でした。先生自身、古典に籠もり過ぎず、又創作に溺れすぎずのバランス感覚を常にとっていた様に思います。
大切な事は、伝統の技法を原点に、新たな作品と時代に挑戦することだったと思います。

私は徳兵衛先生の晩年の学校の公演を拝見していますけれど、それは徳兵衛舞踊のほんの一片でしたけれど、それでもこの踊は凄いと思いましたね。
今日、創作舞踊がガタガタと下火になってしまいましたが、どうお考えですか。

私は幸いにして、色々の方々の創作公演に出演させて頂く機会が多いので、有り難いと思っていますが、実は私は、学校の設立の時、弟子として賛成でなかったのです。
それで徳兵衛先生から疎まれてしまいまして、その後結婚することになり、色々のことが、ありましたが、とにかく一家を構えた以上、踊りで生きていかなければならず、二進も三進もいかない状態で、頭に一銭禿が出来た年の暮れ、仙台のNHKから、番組の振り付けを担当してくれと葉書が舞い込み、原比呂志という方ですが、昭和三十七年の十二月のことでした。
大漁唄い込み
昭和38年 花柳琢兵衛 花柳千加良
それから、仙台でのTVの振り付けをやらして頂き、以後十三年程、毎月毎月単中県ローカル、管中東北六県向け全中全国向けを担当して、目の廻る忙しさになり、色々なまだ白黒TVの時代ですが、創作的な事をさせて頂きました。原さんは、私の人生にとって徳兵衛先生の次に大恩人なのです。
徳兵衛先生と民謡踊

徳兵衛先生は民謡を取材した作品を作っておられますが、そのキッカケはなんなのですか。

民謡が先でなく、民俗芸能が出発点だと思います。全てを網羅する日本民族の踊りは。勿論現在の私達の古典舞踊は、歌舞伎という世界から派生したものだから、それはそれで貴重で、大切にしなけれぱならない伝統芸能では、あるけれどもそれが全てとは、言いがたい。
では日本民族の踊りの原点はと言えば、古代からの、農耕にともない、五穀豊穣を祈り、子孫繁栄を願うもの、神仏に祈り、喜怒哀楽を唄い、踊りに平安を託したものとか、そんなこと私がお話する事は、恐れ多いことですが、徳兵衛先生は、その意味で一般大衆から生まれ育まれて来た芸能としての民俗芸能の方を、より進まれたと思います。

あの頃は民俗芸能は、大変盛んで、戦後の芸能復興で。それで日本青年館で毎年行なわれ常に超満員でしたね。ちょうどその頃、昭和三十三年に中国公演が行なわれ、北京天津南京上海の各都市で公演しました。
丁度長崎国旗事件(*1958年、日中友好協会長崎支部主催の「中国切手・錦織・剪紙展示即売会」において、日本人が中国旗を引きずりおろした事件が起こり、さらにそれに対する日本側の対応も反感を買い、日中間は対日文化、経済関係の断交へと発展した)のあとで、日中間は最悪の関係の時でした。
古典舞踊として、歌舞伎舞踊、そのほか一般民衆の踊りとして向こうに何が持っていけるかということになった時に、日本のフォークソングとして、民謡そして踊り、それが中国に持って行った時は民族の族だったんです民族舞踊として、日本帰ってきてそれを公演する時に、それはやはり可笑しいんではないかと言う事で、日本ではニンベンの俗に直し民俗舞踊集に変わり、稽古公演が最も忙しい頃でした。

それも群舞を創る時に、一人一人が生きていなければいけないということですね。

そうですね。それがあって振りを頂き表現があるという。
ですから、その頃8ミリフイルムで、よく取材に、例えば、岩手の鬼剣舞(*供養念仏踊)、広島の千代田神楽等全国を歩かれ、よくお供いたしましたが、現地で郷土史家、役場の方々にお話を伺い、舞いや踊りを記録して、それを基にどう舞台化するか。今思うと、大変な費用だったと想像します。
なるべくショー的にはしないで、地味でもその土地々の素朴な喜怒哀楽なり心の叫びを。常に人間讃歌をテーマに上演なさった。昭和三十七年初演の、『野の火』、『田の神の暦』はその集大成だったと思います。

そして、間狂言として、民謡の踊りが取り入れられて来たと思います。本田安次先生の影響が多いと思います。尊敬なさっていらっしやいましたから。
最初の日本民謡協会設立時は、発起人として努力なさった様です。
そんな関係で、私も永年日本民謡協会の踊りの部門の審査委員を勤めさせて頂いておりますが、今年も十月二十二日から両国の国技館で四日間ありました。
偉い学識先生方や専門家の皆様の間に挟まれて。

民謡協会で講演した時も申し上げたのですが、大勢で踊るのが巧いですよ。でも何か、うなずけないのです。
なかには、お年寄りのチームもあって、稚拙であっても無心の境地で踊っているものに、感動して心のなかで拍手をしてしまいます。
殆どのものが、体形がきちっと出来て衣裳は、ピカピカの新品、お揃いの化粧髪形正確無比に、手足の角度も全員揃って。一糸乱れず聞いてみると、三分位の曲に一年間は稽古するそうです。それこそ雨の日も風の日も、そっちに、主眼があるようで。
まず真似の出来ないくらい訓練されて勿論出来ないよりは、それはいい事だけども踊りの本質は、その作品が何故出来たのかという、ドラマが必ずあって、唄われ、曲が付き、踊りが加わった。その上で踊り方の原点を把握しての表現が根底にないと。

その点がやはり徳兵衛先生の持っていた民謡踊なのですね。

舞台で演技が完璧だと、その事に拍手を浴びてしまう。ここが問題だと思うんです。だから私は踊りのキャリヤというのは関係なく、それなりに一所懸命にやる事に、感動が生じると思い、それがテーマです。
上手そうに踊ると、上手そうに演じ事に心奪われ、最も大切な魂の無いものになってしまう。だから我々だって格好付けても所詮どうしょうもないから、そのまま構えず裸で舞台に出て心のままにやって駄目なら駄目、それよりしょうが無い。わが非力を嘆くだけ。

初代西崎緑師の民謡踊はモダンで、徳兵衛師のは”土に生きる”という感じですね。

要するに作品は、泥臭いほうですか。
どちらがいいとか悪いとかは勿論いえない事です。ただその方向へ進もうと言う方もいらっしやるし、いや本当はこうあるべきだとお考えになるのも、あって当然です。
問題は前提となる作品の、心があるかどうか。どっちにしても紋付袴又衣裳付けて踊っても、原点(心)があるかないか。

むろん私自身がそれを、やれるとは思っていません。けれども舞台に出る前に大事にしたい、常にそうは思っているんです。
まず、日本の踊りの素晴らしさは、抽象的に心の表現を技巧として持っている点、特に能の影響かと思いますが、素踊りなどで縮尺簡略して、静を持って動をより以上に、その演者の心の清浄感を起爆剤に表現出来る点、それはとても模倣できないし、その人自身のみ心の波動を、舞台から客席に発生出来るのだと思います。

よく客席が、金縛りに遇ったように、シーンとみじろぎもしないときがあり、幕が降りたとき急に騒めくそんな時、それを感じます。
上手で素晴らしいんだけども眠くなる時。お客様が、今何処に居るのか解らぬ程・舞台に吸い込まれている場合、それはやはり舞台人として大事な事だと思います。
古典であっても、創作であっても、今この事が問題だと思うのです。勿論私が出来ると言うことではないのですが。
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